「出会う」境界に立つ
- 森田宗孝
- 2023年5月25日
- 読了時間: 2分
子どものころから「実感」というものがなかった。食べても味わえてない感じ。家族で旅行に行っても感動しない。人に会っても何か表面的で。中学でも高校でも日々、何か実感がわかない。20代で海外へ旅行に行って、その町、そこで暮らす人に会っても、何か手応えがない。出会えていない感じ。それは30代になっても、40代になっても、50歳を過ぎても「ぼくは出会えていないんじゃないのか」と度々。「実感」がわかないから。
もちろん、これまで人に会って刺激を受けて「自分」が変わってこられた。富士山、セザンヌの絵、江戸時代の染め付け、飛騨の建築を見て素敵だと思ったし、いろんな食べ物も美味しいと感じてきた。でも、それは一瞬のことで、また実感のない世界に。
そんな実感のない世界、ふわふわした空間に漂っていたいたぼくが、「実感」できるようになった。どうして自分の目の前のものをリアルに感じるようになったのか。

自分の身体を基準にもどすために体操(水戸の海辺でしていたやつ)を、その日もしていた。でも、その日は、ふと、いつもと視点、視線を変えてみた。そしたら目の前の木が立体的になって、鮮やかになった。いつもは自分の感覚を見ていた。腕を前に出して、水平に向けて、自分の身体の外側にある「境界」に手がいくと身体の中心がでる。それを感じるようにしていたのだけど、その日は、境界と中心を感じながらも、境界の向こう側、水平線の先を見てみた。境界にある手で外を感じるようにしてみたら、景色が変わった。というか現れた。
そうか、ぼくはいつも自分の感覚をみていたんだ。外を見ないで。自分がどう感じるかに意識を当てていて、外に当ててなかった。そうか、自分の身体の外側の境界まで出て行って、そこから外を見ないと出会えないんだ、と。
ぼくが実感をもてなかった原因、世界と出会えなかった原因は、ぼくが自分の境界まで行かなかったから。境界に立っていなかったからだった。
それは、ぼくの性格が内向きだったから? まあ、それもあるだろうけど、現代の日本で教育されたからなんじゃないか、とも思う。ぼくたちは小、中、高、12年間。大学へ行けば16年、毎日、何時間も、頭ばかり使ってきた。言葉を覚える、言葉で理解する。「頭で考える」ことを身につけてきた。ぼくは考えていたから出会えてなかった。目の前に人がいても、ものがあっても、ぼく自身は頭の中にいた。理解することに注意がむいて、目の前の人を見てなかった。
「実感」をもって生きるには、目の前のものに出会うには、意識を頭から離して、自分の身体の外側にある「自分」の境界に立ち、身体で向き合う、ということ なんじゃないかな。
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